恵比寿横丁

Ebisu Yokocho
2008年5月
築40年のシャッター街を酒場街に再生。世代、国籍、肩書を超えた乾杯コミュニティ。20店舗の個性が調和した“笑売共同体”を作る。

オープンストーリー

-背伸びの街-

2000年代初頭、世は「ダイニングレストラン」全盛期。著名な空間デザイナーによる煌びやかな内装、創作性溢れる料理、スマートなサービス…。飲食の聖地「恵比寿」では、″渋谷を卒業″した新世代ビジネスマン、若手クリエイター達を中心に″バブル期″の再来のような盛り上がりを見せており、私自身も前職の企業では億単位の金を託され、この街で絢爛豪華なレストランを数々生み出していました。

競い合うように店舗開発を進めていく中、自身を含め、この街に行き交う人々が少し″背伸び″をして生きているにように感じるようになり、当時より「この街に世代・職業・肩書に捉われず、個々が″素の自分″で楽しめる場所が必要」と考えていたのです。

-時代に取り残された場所-

恵比寿駅西口、戦後バラック市場から始まり、昭和の庶民生活を支えるべく、大いに賑わった公設市場「山下ショッピングセンター」は、時代と共に老朽化が進み”シャッター通り”と化したまま、そこだけが時代に取り残されていました。

物件を前にした瞬間、小さな酒場がひしめき合う中、お客と店員が笑い合っている映像が降りてきたのです。

「ここを酒場街に再生して、当時の活気を甦らせたい

そんな単純な思惑から全てが始まりました。

-奇跡の横丁-

恵比寿駅より徒歩2分の好立地ながら、未開発である事に疑念を抱きながらも、地元の不動産業者に問い合わせてみたところ「あそこは触らない方がいい」と言われた意味がすぐ分かりました。

何社、何人もが複雑に入り組んだ地権。

上階のマンション所有者全員の承認。

過去、開発を試みた会社はいくつもありましたが、進めば進むほど壁に遮られる迷路に、誰もゴールにたどり着けずあきらめた鬼門。

当時、名も金もなく「酒場横丁を作りたい」という個人の無謀な提案に誰も振り向いてすらもらえませんでしたが、通い続けること半年。″繁盛の神様″が後押ししてくれた奇跡でしょう。家主、弁護士、開発企業に賛同してもらえました。

環境開発を進める中、同時進行で、横丁の肝である出店オーナーを募りました。

いわゆる“昭和の横丁”では、長年の歴史の中で店舗間に“先輩、後輩” が自然発生し、良好な関係性が生まれますが、意図的に横丁を造り、全店同時オープンするという前例なきプロジェクトに、開発段階から店舗間のトラブルは不可避であると覚悟をしていました。

だが、ここでも奇跡が起きた。

リスクもトラブルも覚悟の上で「ぜひ出店させて欲しい!」「みんなで協力してここを文化にしよう!」という、熱く面白い飲食店オーナーが引き寄せられるように集まりました。

当初プロデュースとして最も懸念していた出店場所や、出店業態も恨みっこなしのジャンケン。人生をかけた本気のジャンケンに一喜一憂する姿を見て「この人達とならこの横丁は成功する」と確信、商売の苦楽を共にするため自らも出店し、我々は笑売共同体となりました。

中には独立初出店の方もおり、恵比寿横丁の裏テーマでもある個性派飲食人開業チャレンジのステージとしての役割も担った。

誰にも理解されない構想から、無我夢中で約2年。

2008年5月30日、関わる全ての方々の思いが宿った「恵比寿横丁」はオープンしました。達成感に浸る間もなく、全ての客席が埋まったその光景は、あの時に見えた映像そのものでした。

恵比寿横丁

-次世代に繋ぐ酒場文化-

この「恵比寿横丁」を皮切りに、様々な飲食店プロデュースに取り組んできましたが、10年以上たった今でもこれ以上の奇跡はありません。

今、恵比寿横丁は、そこになくてはならない″たまり場″として多くの方々に愛され続けていますが、それはオープンから変わらぬ関わる全ての人々の思いが宿り続けているからです。

ただ「昭和の呑み屋横丁」を再現しても、そこに″宿り″がなければ、それはただのカタチに過ぎない。恵比寿横丁は我々の原点であると同時に、目標でもあるのです。

現在、我々が人工的に生み出す横丁をきっかけとして、若者にとっては敷居の高い昭和時代から続く「歴史ある本物の横丁」に足を運ぶ方が増え、酒場文化を次世代に繋いでいく事も横丁プロジェクトの大きなテーマです。

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